忍者ブログ
  • 2024.04
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 31
  • 2024.06
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

【2024/05/04 20:32 】 |
大阪にて。
 昔から 紀行文を 書きたい と 思っていました。
私の本棚には、 「ドイツ紀行」、「イギリス 歴史と旅」 など 沢山の旅行記があります。
 正直 理屈っぽくて 面白くないです。

どうしたら 楽しい旅行が こんな堅苦しい 活字になるのかがわかりません。

 私は、単なる 旅行記ではなく 人物 土地を 抉るように 観察し、電池が切れるまで 舐め歩き、石畳み 一枚一枚 めくるような 文章を 書きたいと おもっています。(実際 石めくったところで、ナメクジしか いないかも しれませんが 笑)
 
 ちょっと 第一弾 書いてみました。

 十三から 梅田に向かって歩く場合 淀川大橋を 渡らなければ なりません。
 橋自体は 広いですが 歩道部分は極端に狭いです。 そこに 人間以上の 自転車の往来があります。
猛スピードで チャリンチャリン 鳴らしっぱなしで 皆 走っています。
 
 オーストラリアでは エスカレーターは 左によって右に通路をあけます。
日本では逆に 左に通路を 開けます。
右に寄る べきか 左に寄るべきか 考えている間もありません。 後ろから 前から ドンドン 来ます。
正直 危ないです。
(オーストラリアの様に 気楽にいきません。)
 
 私は 大阪に帰ると 急に大阪弁になり、
「危いやろ! 何 考えてんねん。」 と、怒りながらも、 「なるほど チャリンコは 名付けの妙だな!!」 なんて つまらない事を考えています。
 
 
 
 オーストラリアで チャリンチャリン 言わせて走る人はいません。 第一、『どけ!!』 という対象がいません。オージーに 自転車は 日本では チャリンコです。 と 言っても、その発想事態 理解不能と思います。
 
 
 
 
その橋を 梅田側に渡り終えた所に 水防碑 が立っています。
「災害は 忘れた頃に やってくる」 なんて 書かれています。
 
 過去 何度となく目にしていますが 随分つまらないことを 書いている。と、思ってました。
「忘れた頃? いわれんでも 分かってるわい。」 ってことですね。
 
 いっそ 商業の都です。『損して得取れ!』 みたいな 生々しいものの方が、大阪人は ハッと します。 
 商売していると 不渡り 商品不良 客からクレイムがついたり 後ろ向きの仕事がどうしても発生します。
その度に 神経を すり減らすのではなく 気持ちよく片付け 次は 儲けさせて貰おうと 気持ちを切り替えた方がプラスです。
 
 河川敷ですから 建物は 無理かもしれませんが、バカ高い梅田で 高級御影に彫られており、 明らかな税金無駄遣いです。
 
 
 今年 6月の 帰国時 ふと この碑を見かけ 思わず 神妙に立ち止まりました。
いままでと 全く違う 風情 がありました。
 
2011年 1月12日の洪水被災から 1年半経っており あの時の苦しみを 忘れかけていたからです。
今でこそ お話できますが 最悪でしたね。 本当に苦しかったです。

「また 忘れた頃 きっとくるな」 と つくづく 思いました。
ステイ シャープですね。
 
 一言だけ 言わせて頂きたい事があります。
 現在 弁護士が先頭に立ち 2011年1月の 洪水被害者達が 州政府ダム管理局を突き上げています。
その リーガル プロテクションたるや7億円です。 すべて税金になって 州民に跳ね返っています。

いい大人が いつまでも 甘えるんじゃない。 という事です。
 
 娘に 弁護士の道を歩ませている人間が こんな事を言うといけませんが、「弁護士も くだらない食い扶持探すな」 と言いたいです。
 
 ブリスベンの面積は ロスに続く 世界第2の規模です。
いくら小手先で 小さな水門を操作しても 大雨が降り、溢れ出す水を 制御するのは不可能です。
それに 我々が 被災した時 どれだけ 州政府に お世話になったか わかりません。

如何なる事があっても、絶対に ご恩を忘れてはいけません。

 地震 フラッド は、天災(mother nature ) です。 人の所為にしても はじまりません。 援助を差し伸べてくれたことに感謝し 自力 復帰の道を 歩まねばなりません。
 
話を戻します。
 
(事件は 忘れた頃に。)
 前回の ワンデーは 6月23日 土曜日でした。
24日 翌日の 日曜日の夜 PC が トラブリました。
 
私は 「ワンデーが 終わっていて 良かった。」 と つくづく思いながら 必死で問題に取り組んでいました。
結局 解決方法が 見つからぬまま リカバリーをかけ 床に就いたのが 午前 0時30分頃でした。
 
家内は 犬が グ~~! と 怒るので トイレかな と思い 午前 2時に 庭で おしっこさせました。
その時 物置 冷蔵庫の上の 戸棚が少しづつ 開いており  私が何か探したのかナ。と 思い しめ直して
寝たそうです。

 
私は 翌日午前3時半に 起きました。 (3時間しか 寝ていないことになりますね。笑)
 
 仕事部屋に入ると 椅子の上に 家内の 靴が ぽ~~ん と 無造作に おいてあります。
 
犬の ももが 遊びに来たな? 程度におもいました。
(それにしてもチビだから 届かない筈だけど なんて ちょっと 気になりだしていました。)
 
机に座っていましたが、 何か 変な感じがします。
名刺カードを 漁った様な 感じがしますし、引き出しの中も いつもと 違う気がします。
家内が 何かを 探したかなと思いつつ 未だ 深夜ですから 起こしてまで聞けません。

朝 仕事部屋をはなれ トイレに行くと 応接のカーテンが 突然 微妙にフワ~と 風になびきました。
 
「あ! 窓が開いてる??」 
 
怪訝な思いで 駆け寄ると フライスクリーンが 外され 芝生に 放り出されています。
「やられた!!!」 泥棒です。
空き巣ではなく 夜 我々がいる間に やられています。

(ももちゃんは、 可愛いだけで役に立ちません。飛んでいって 泥棒に大怪我させ  腕の一本 二本 千切って来ないと。)
 
 
 ふと ブリック フェンスに 目をやると コインが 固めて置いてあります。
私は 盗ったものを 何かに慌てて 忘れていったのだと 思いました。
 
ところが 良く見ると コインに混じって 携帯のSIM カードも混じっています。
 
これは 侵入する際 ジャラジャラ言うので ポケットから掴みだし その時 SIMも同時に出したのだと 推理しました。泥棒の持参金です。(勿論 SIM は 彼が 携帯を盗んで 抜き出したものです。)
 
慌てて 家の中の物を 確認しましたが、特に被害が思いつきません。
何らかの 要因で 多分 慌てて飛び出しています。  と言う事は、私は 泥棒に入られて お金が 儲かったことになります。
そんな話 前代未聞で、正直 (一瞬ですが) 俺は やっぱり 人生ついてる と 思いました。
 
 でも 世の中 そう 甘くありませんね。 時間が経つにつれ あれない これない と、 多少 貴重品を含め 被害が発覚しました。 (私、杜撰で、そこら中に お金や 貴重品 置いています。 いつも、あれ? こんな所にお金が?! ラッキー!! と 見つける事も多く 本当は もっと盗られているかもしれせん。)
 
でも、今回の事件 よくよく考えると 私のミスで 今まで 泥棒が入らなかったことに感謝しないといけません。 ちょっとした 戸締り 整理整頓 を 励行していれば防げたことです。
 
 寝る前 一つ一つ施錠を 確認する。(よく 夜 ガレージが空いている家がありますが もっての他です。)
それから 金銭類 鍵 貴重品は 毎晩 場所を決め 隠さないといけません。
 
 私に 限って絶対大丈夫と 思っておられると思いますが、必ず 災害は 忘れた頃に 起きます。
常に 適度に緊張し リスク回避して下さい。
 
結局 「忘れた頃に」 標語。 感慨深く眺めたわりに 生かしていなかったことになりますね。

それより ---。
これ 紀行文?? って 事ですよね。
 
 
 それにしても、泥棒。 後から じわじわ 腹立ちます。 気をつけて下さい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

拍手[1回]

PR
【2012/08/02 07:54 】 | 紀行文(ワインを啜りながらお読み下さい。) | 有り難いご意見(0)
クライストチャーチ 紀行 その1.
f0166919_1648932.jpg







 




NZ地震が 厄介だったのは 巨大地震の後に チマチマした余震が頻発した事です。
 
 2010年9月に マグニチュード 7が 来てから 2年間に渡り
約 2000回の余震が カンタベリーの人を悩ませました。
 
 丁度 オーストラリアで言うと いつ 洪水になってもおかしくないような 豪雨が延々続く状態です。
 
その中に余震としては 大きすぎる 5-6クラスが 何度もありました。
 
 早く修理しないと 生活が成り立ちません。
 
 でも、地震が一向 治まらないので また 大きな揺れがきて 振り出しに戻されるかもしれない という 不安が常に 人々の念頭にありました。
 
 2011年 2月22日に 2回目の大地震(M 6.1) があり 200名近い人命が奪われました。
 
 マグニチュードで 言うと 2010年 9月の方が 7.0 と 大きいのですが 2012年の方が 振幅内の移動速度が速く 大きな被害がでました。
 
 その直後に NZランドの ジョン キー(首相)が、
 
「母なる大自然よ。 貴方は我々から クライストチャーチを奪った。 
 でも 決して 我々NZランド人のスピリットまで 奪ってはいない。 我々は直ぐ立ち上がる。 何度、倒されても 必ず立ち上がってみせる」
 
みたいな 勇ましい スピーチをしました。
 
でも どうなのでしょう?。
 被災もしていない政治家が、 口先だけ勇ましいスピーチをするのは?
丁度 うつの人に「頑張れ」と 励ますようなものです。
 
 被災者達は、絶望しています。
死者も多数でて 遺族の 悲しみは ピークに達しています。
 投げやりな気持ち が 復興しなければ という やる気を上回っている時です。
 
 この スピーチは逆効果だろう。なんて 冷めた目で見ていたら、横で、普段 涙を流さない クールな娘が ゴボゴボ 喉から変な音を出しています。
 
てっきり 感極まって もらい泣きしていると 驚いていたら
単に紅茶を 気管につめて むせているだけでした。
 
(私と 地震の関わり)
 別に 私は 地震との係わりは ありませんが、彼是 30年 日本に 住んでいたのに、恐ろしい目に遭ったことがありません。
 
 震度 1~2 程度で、 「あれ もしかして? これは 地震??」
と、微かな揺れは 感じた事があります。 
 
目を蛍光灯から垂れ下がるスイッチの紐に移すと、微かに揺れています。
 
「あ! やっぱり 地震だ。」
程度の経験しか ありません。
 
 阪神淡路大震災も、東北大震災も 海外にいたので、被災しませんでした。
 
 おまけに、オーストラリアは 全く地震と無縁で 特にブリスベンは 有史以来、一度の地震も 観測されていません。
 
 
 
2013年 1月 丁度 震災から 2年たった頃に、たまたま 仕事があって クライストチャーチに いきました。
 
 自然災害回復力の強い 日本の景色を 重ねて、元気なチャーチの街を想定していました。
 
 実際 阪神大震災の一年後、知人に案内してもらい、神戸を訪れた経験があります。見た目 随分綺麗になっていて驚きました。
 
 店も普通に復旧して、皆 忙しそうに働いています。
 
 私を案内してくれた人は、
「此処に OOが ありました。 あそこには こういう ものがあった。 嘗ては 最高に 綺麗だったのに!!」と 頻りに嘆いていましたが、震災前のイメージが無い私にとっては、随分 すっきりした 感じがしました。
 
 
(クライストチャーチ 訪問)
 
 震災以降 飛行機便がメッキリ減って、何処の国からでもクライストチャーチに行くのに 大変な回り道を強いられます。
 
 今回、出張に同行した日本の人は、関空から来ましたが、オークランド乗り継ぎで、大変 時間がかかったと ぼやいてました。
 
 ところが、本当のトラブルは 帰国の際に起きました。
チャーチ オークランド 成田 関空 という 最悪の4迂回経路だったのですが、成田で積雪の為 足止めになり、空港で 凍える様な一晩を送ったそうです。結局丸2日かかって帰国しました。
 
 乗り継ぎが多いと 何処かでトラブルが発生します。
飛行機が落ちたり。
 
 私は、同情しながらも やはり、日頃の行いが 大切だなと
痛切に感じていました。
 
「当分チャーチは勘弁して下さい。」なんて言ってましたが、また 直ぐにでも 行かなければならない用事が 燻りだしています。
 
  一番近いブリスベンからは、流石に 3時間半でいける 共同運航の直行便が日に数本ありますが、昔に 比べるとメッキリ 減って ほとんど シドニー、メルボルン オークランドを 経由しなければなりません。
 
 それに便利な時間帯には 一本もありません。
 
 そんな 事情があって、クライストチャーチには 真夜中につきました。
 
 私は、自分では人相が悪い方では無いと思っていますが、いつも、入念な手荷物検査に回されます。
 
 私より 物騒な顔をした人でも、検疫がつかえてくると
エキスプレスレーンから ノーチェックで 出て行くのに、何が違うのかといつも思ってしまいます。
 

空港ロビーに 出たのが 午前1時頃でしたから 今更 夜の街を徘徊するわけにも行かず ホテルに直行しました。
 
 ブリスベンを出るときは、大変蒸し暑く 気温が35度近くありましたが、クライストチャーチは 真夏でも 志賀高原の様にひんやりしています。
 私は、荷物検査の際 薄手のジャンパーか ブレザーを 掴み出さなかった事を 後悔しました。
 
 いつも 到着当日と 帰国日だけは、SUDIMA ホテルを 取ります。
 
 スジマホテルは、変わった名前ですが、空港から徒歩でいける距離です。
 運悪く 送迎バスを逃しても 荷物を ガラガラおして いける所にあります。 
 
 一見 ショボそうですが、中は 結構 快適です。
CITY の グランドチャンセラーや プラザホテルが壊滅してしまいましたので、今の チャーチでは これが、一流と言わざるをえません。
 
 もっと 安くて綺麗な モーテルタイプのホテルは、チャーチには 沢山ありますが、私は、ロビーの風景が好きで、旅行にでると できるだけ 大きなホテルに泊まります。
 
 暇さえあれば ロビーで、ワインを啜りながら、出入りする人や車をぼんやり 眺めるのが好きです。
 
 (翌朝、CBD に行ってみました。)  次回に続く。
 
 
空港から CITYに向かって一直線に伸びる フェンデルトンST から カジノのある ビクトリアSt に 入ったのですが町の様子が一変しています。
 
あるべき所に 建物が ありません。
 
木造建築は 殆ど なくなっており カジノだけが無事で、震災前のまま建っていました。
もしかすると、数少ない チャーチのアトラクションですから復旧を急いだのかも しれません。 
 
 元々 この カジノ、 オークランド カジノの様に 人で潤っているのを見たことがありません。
 そこに、地震が来たわけですから、観光客や 語学生など 激減し 遊んでいる人は 殆どいませんでした。
 
 チャーチの街外れに、奇麗な小型ビルが沢山あって、IT、建築設計事務所、サージェリー 弁護士 会計士 など 主に知的サービスを提供する会社がテナントで入っています。
 丁度 大阪で言うと本町 淀屋橋。 ブリスベンで言うと
コロネーション ドライブの 様なところです。
 
 
ガラスの割れは激しかったですが ビルそのものは 昔のままで、一見 綺麗に立っていました。 ところが 玄関まで行くと、一様に立ち入り禁止ラベルが貼られ 中に 瓦礫が散乱しています。






 626b0429.jpeg
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(塔自体 ショボイですが まわり ご覧になって下さい。 何も ないでしょ!) 
 
 
 
 
 街に入る 玄関口に 時計台があるのですが 周りに施してある
彫刻は 亀裂が入り 塔自体も 独りで立っているのが やっとの 様子です。
丁度、松葉杖をつくように、外も 中も 木枠が組まれ 痛々しく 支えられてます。
 
一番 ショックだったのは クラウンプラザ ホテルが 倒壊し瓦礫撤去も終わっていました。
 
 宿泊費が 高いので たった一度だけ それも 接待で 泊まったことがありました。
 ロビーのレイアウト 部屋の内装 申し分なく 一人で泊まるのは 勿体無く いつか家内と贅沢したいと思っていました。
 
 広い跡地に 安っぽい ビール用のプラスチック カートンが 平たく積まれ その上に 沢山 サボテン鉢が 無造作においてありました。
(何でしょう? あれ。未だ意味がわかりません。) 
 
クライストチャーチは、エイボン川の静かな流れと、公園を絶妙に取り入れたレイアウトが売りで、建物自体は立派なものは ありません。
唯一 クラウンプラザだけ立派で、NYに 持って行っても遜色が無い建物でした。
 


 CITY の中心が どうなっているか 大変気になり、車を
路駐し、都心に入ってみました。
 
正直 ビックリしました。
 
 ほんの一部だけ 解体、瓦礫撤去が終わったところもありましたが、殆どが (90%以上という 感じですね) 地震直後のままです。
 
丸で、地震を (街全体を博物館にして) 保存している有様で、それを 観光資源にしている感じです。
 
 崩れた建物も 殆ど 地震直後のまま 時間が止まっています。
数週間前に 地震がきた。と、言われても 誰も疑わないと思います。
 
 我々がいつも 利用していた グランドチャンセラーホテルは 跡形もなく取り壊され 唯一と言える高層建築が 姿を消していました。





(チャーチのシンボルが こうなったまま 時間が止まっています。悲しみしか ないです。)


  この街が クライストチャーチという名前が付けられた 由縁でもある
カシードラル(大聖堂) ですが、屋根の 半分が めくり取られ 内部が むき出しになっています。
 

ちょっと 脱線ですが。
 
 私が最初 この建物を 見たとき 随分しょぼい物が 観光の売りだな。と 失望しました。
  実際 ブリスベンの  セイント ステファン大聖堂 や セイント ジョン 聖堂 の 方が 贔屓目ではなく立派です。
 外見状は ブリスベン アルバート ストリート チャーチ程度では ないでしょうか?

 
ただ、中の装飾 展示品 祭壇などは 大変立派で、外見ではなく 中身を 充実させている印象を受けました。

 
 
 しばらく、街の様子をみていましたが、沢山の人が亡くなっている場所ですし、ニュージランド人が 一生懸命作ってきた街が ズタズタになっているのをみるのも 気分の良いものではありません。
 金網で 厳重に仕切られた街を 遠巻きに見ながら車をとめている方向に 歩き出しました。
 
 すると、 日本から合流した連れが
 
「来た道 帰っても 能がないじゃないですか。  やっぱり、街を真っ直ぐ抜けないと。」
 と 言いました。

 私は 全く 彼の 意図が読めませんでした。
街は金網で 仕切られ 殆ど 見学できない状況です。

わざわざ 車を止めている方向と 逆に 歩きましょう!!と 言っているのです。
 
 街をつっきても 必ず 行き止まりになり、 結局 後から 同じ道を戻らなければなりません。
  私は 疲れていたのと 少し 足が痛かったので 多少面倒に思いましたが 彼が ポイントレスなのは 今に始まった事ではありません。

 
 
「そう? 能がないか?」 と しぶしぶ 踵を返し 彼の行く方向に進路をかえました。 ただ、この 一言が 後になって 大変な 出会いを クリエイトし 彼は 単なる 思いつきでいったのではないと 思える事がおきました。

また、変な方向(スピリチュアリズム)に 話を持っていく と 言われかねませんが、スピリチュアリズムに 傾倒してくると、偶然 とか 奇遇 という 事が 実は アレンジメントで あることに 気付きます。

誰の? ということですが、霊界からの と言うことになります。

人に偶然出会う。自分でも 納得のいかない 不条理な 環境に 追い込まれる。
これらは、ある 学びの序章で、必ず 良かれ悪しかれ ストーリーが展開していきます。


 しばらく 歩くと、真っ黒い モービル型 Take away バンが とまっており その横で アジア人らしき女性が うずくまっています。
 
「何を しているのかな?」 と 覗き込むと 見覚えのある顔です。
 
「あ!!」
なんと ブリスベンで お世話になった 岡山(極めて 本名に近く 誰の事か 直ぐ分かるようにした 仮名です。)さんです。
 
 ご主人が 元々 キーウイーで クライストチャーチに引っ越されたのは
良く存じ上げていましたが、 まさか こんな所 こんな状況で 出会うとは。
 
私は この奇遇を 帰国後 日本食販売の メルマガで 「岡山さん。元気で、頑張っておられました。」と紹介しました。すると 何人か 彼女に連絡を取られたみたいです。
 
後日 ご本人から、

 「戦後の 焼け野原で 家族を抱えた女性が 大八車をおしながら 必死で 生きていたみたいに。 皆の、同情かって 可哀想がられています。」 
と、クレイムが 入りました。
 
 私は、メールは どう書いたか あまり 覚えていませんが、多少 面白く書いた記憶はあります。でも、大八車で行商みたいな 書き方はしなかったと おもいますが---。
 
 誤解を解く意味で 少し説明を加えますと、黒いバンは TAKE AWAY用設置式で、中は フライヤー、調理台 すべて 揃っており ちゃんと DPI (衛生局)の ライセンス付なのだそうです。
 
 それと 結構 売り上げも 出ていらっしゃるみたいで、惨めで 暗いイメージでは なかったです。
 
(最後に)
 今回 チャーチの 街を 見て 痛切に感じた事ですが、 あれだけ 激しい地震が 来る場所なのに、建物は オーストラリアの様に ブリックを 積んだだけです。

 丸で 積み木の家で あまりにも 防災に対する ガードが 低すぎると 常々思っていました。
 
 今回の地震で 初めて 屋根の建材 基礎工事の詳細まで 事細かに 政府の規制が入りましたが、よく 建国から 今まで 無事に 立っていた。と思います。
 
 ただ、今後 150年周期で、規模も クライストチャーチを 上回ると 予想される ウエリントン が 明日 地震が来ても おかしくない 時期にさしかかっています。

 同じ様な 事態が発生するかも と 考えると NZ これから ちょっと 大変です。
 
 
 
 終
 
もう直ぐ ヨーロッパ紀行を 連載で 書かせて 頂きます。
その時は もっと 書くことを厳選して、良い 紀行文に しようと 思います。

拍手[0回]

【2013/07/06 08:22 】 | 紀行文(ワインを啜りながらお読み下さい。) | 有り難いご意見(0)
サンタフェの不思議な 螺旋階段。

インドアピリー ショッピングセンターの一番北に、マイヤーセンターがあります。





私は、いつも3階駐車場に車をとめ、エスカレーターで下におります。

 

 エスカレーターの最上部から 手すりにごしに ついつい下の景色を覗いてしまいます。 「見たらだめ。」、と思うのですが 

 

 怖いですね。あの高さ。

エスカレーターの手すりって ベリ とかいって 取れたりしないですかね?

 

手すりは腰までしかありませんから、ちょっと乗り出せば 体の半分が 外に出てしまいます。 
お腹が擽られる(くすぐられる) 様な感じになり 思わず足が竦みます。

 

 ストレス社会の日本に あんなのがあれば、人口が多い分 馬鹿も多いです。

年3-4名は 確実に飛び降ります。 


今回は奇妙な階段について書きます。

 

 アメリカのニュー メキシコ州に サンタフェ という 田舎町があります。

嘗て スペインに統治された経緯から、異国情緒漂う観光名所です。

 

日本でも 宮沢りえのヘアヌードのロケ地として 一躍有名になりました。


 私ですか?

見てません。宮沢りえ も ヌードにも 興味ありませんから。

(ワザワザ書くところが 逆に怪しいと言う人がいますが )

 

 街外れに ロレット  チャペルがあります。 そこにある 螺旋階段が 建築上 説明が つかないそうです。
 
 
    
 (オリジナルの階段に手すりがありません。これは怖いですね。)

 

 実際に調査した建築家達は、「強度上 あり得ない」、「直ぐ、使用禁止にしないと大変なことになる。」と警鐘をならしていますが、下の写真ご覧ください。

 
   アメリカの聖歌隊の大きな姉ちゃんが (写真から判別できるだけで) 13人乗っています。 それに、建立が 1877年ですから、140年間一度も 事故が起きていません。

 

 私は、これを見た時 不思議かな? 程度で 特に驚きもなかったのですが ヨクヨク考えてみると あり得ない建造物です。

 

 上に3人くらい大人が乗って 階段自体の重みに、人間の体重が加わると 下から 1mくらいのところで、バキッといく筈です。

 

 完成当時は手すりがなかったそうですが、流石に 今は、つけられています。

 カクッとなって 一段踏み外したら 真っ逆さまですからね。手すりは要りますね。

ところが、その手すりも 手すりどうしで繫がっておらず、支え木に 多数 穴を開け 強度を弱めていると思うのですが?




(これは 補強には ならないでしょ。それに、底板薄いですね。本当に折れない理由がわかりません。)


危ないと言われるものに 手すりくらいなければ 崩れだした時 体勢を保つのに 掴まるものが必要です。
 
 
 

 

 螺旋階段たるもの、真ん中に 垂直の支柱をいれ強度補強しないと いけないそうです。

 それに、現在の建物は 様々な金具を使い 強度補強しますが、140年前の建造物ですから、木釘しか 使われていません。フランスのルーブル美術館に同じ物がありますが、それはしっかり補強されていました。

 

 実際に現地に行った人は、随分 揺れるので 怖いそうです。

丁度、バネのように、下に圧力がかかえる度 撥ね返るのだと 思います。

 

 

 不思議な建築物には、必ず それにまつわる ミステリアスな言い伝えがあります。

 

 ロレットチャペルは 1873年から 建立が始まったのですが、約 7メートルの高さにあるクワイアーズ ロフト (聖歌舞台) に 建築者のミスで 階段が 付けられていませんでした。 後から作るにも、狭い教会内に十分なスペースがありません。

 

 当初は 梯子をつかっていたそうですが、余りにも高くて怖いので (下りる時が、とくに怖いですね) シスターが ST ジョセフに 祈りを捧げ 「階段をなんとかして下さい 」 とお願いしたそうです。

 

 すると、10日目に 何処からともなく大工が現れ 半年で この階段を一人で

完成させたというのです。

 

 マジなお話ですが、 使われた木材は 地場からとれる物ではなく、どこで 手当てしたか 分からないそうです。

 

 その不思議さから、ST ジョセフ 自らが 大工に化け 現れたのではないか?と。

 

  7メートルの螺旋階段を 組み立てた個人的経験はありませんが、

作業工程上 一人で作るのは 不可能だそうです。

(そりゃ そうですよね。グニャグニャに曲がった 柱のはりを 立てるだけでも3-4名の人手が 必要です。)

 

それに、2階の建物を設計しておいて 階段を忘れるなんて!  そんないい加減な建築家が 果たしていますかね? 丁度 家を設計して トイレと風呂を 忘れるのと同じです。

 

 まあ、伝説は伝説として。

階段話は此処までとして、後はちょっと 思い出話の付録をつけさせて頂きます。

 


 私は、友達6人とアリゾナ州 フラッグスタッフまで、ロスから車を転がしたことがあります。

(フラッグスタッフに着いた夜、最悪の事件に巻き込まれました。到着後、ワインを買いに行ったのですが わずか 20分程の間に 部屋に泥棒が入ったのです。大きな荷物は、着替えとゴミばかりですから とられません。カメラ トラベラーズチェック 財布など 入れてる 小バッグばかり 根こそぎやられました。)

 

 サンタフェは 当時 余程のツウでなければ 行かない場所で、ガイドブックにも載っていませんでした。

 

 今 考えれば ちょっと足を伸ばして、モニュメントバレーを突っ切り サンタフェ から ロズウェル (UFOが 墜落した町) まで 行けば 良かったと 反省しきりです。

(ロズウェル 出身の 宇宙飛行士 エドガーミッチェル博士は、UFOは間違いなく ロズウェルに落ちている。政府は それを隠蔽していることを 宇宙飛行士の 名誉に かけて誓うと 暴露して大きな話題になりました。)

 

 ただ、アメリカを 旅された方は、あの国の巨大さを よくご存知だと思いますが、 床一杯 アクセルを踏み込んだ状態で、 何時間走っても何処にも行けません。

 

 ロズウエルからロスまで 同じ道を引き返す退屈さを 考えると、ヒューストンでNASA を 見学して、一路 NYを目指すほうが 良さそうです。



 



(アリゾナ モニュメントバレー )
 凄い景色だと思うでしょ?アメリカを1時間も走れば こんなの なれっこになり 然程 驚かなくなります。

 


話を階段に 戻して。
 私は、横のハリ が 一木つくり で 階段最上部が 頑丈に クワイアーズ ロフトに 固定されておれば
それなりの 強度は 出る筈と 考えます。

ただ、バネ構造と言われる 階段が いかに 伸縮幅を 圧縮するよう 工夫されているかが ポイントですね。

 いずれにせよ、5年以内に 現地に行き 納得がいくまで 見てきます。
 また いずれ レポート させていただきます。

 

 私が行った日に 崩れたりして。

150年 何事もなかった階段が、 一人の 心無い日本人が来て 壊れた!!

ということに なれば、面目丸つぶれですね。

拍手[3回]

【2013/12/30 15:39 】 | 紀行文(ワインを啜りながらお読み下さい。) | 有り難いご意見(0)
マウント クック 一度 登ってみますか?

2007年1月に NZ南島にある QUEENS TOWN に行く途中  レイク ティカポに寄った時の事です。

 

ティカポと言う名前ですが、何か人を馬鹿にした様な感じがします。

実際に行って見ると、 氷河が溶ける際 青乳白色になりますが、なんとも 不思議なエメラルドグリーンの湖と、 その遥か後方に見える MTクックの勇姿にゾクッとさせられます。



 

 QUEENS  TOWN まで まだ 5時間近く走らないといけないので、早々に引き上げようとしたら、日本から合流した友人が、「序でにマウントクックに登っていきませんか?」 と言いました。

 

 彼は、新婚旅行も奥さんとNZに来ており、レイク テイカポに行く途中、レンタカーを山中に転がしてしまい 近隣農民に大変な迷惑をかけた武勇伝の持ち主です。

 

 私は好奇心が強く、何でも興味があって色々と経験したい方ですが、登山だけは知らないというより興味がありません。第一 高山病で頭がガンガン痛いところに、寒いというだけでひいてしまいます。

 日本にいるとき、何度か 標高1200M の 金剛山に登った経験はありますが、山頂に着くと 売店があって コーヒーや食事ができるようになっています。登山というより ちょっとしたハイキングという感じです。

 

 彼は、車を転がした経験がある分 私より多少NZに知識がありました。

まるで、隣のスーパーに野菜でも買いに行くような気軽さで言うので、マウントクックも山頂までケーブルーカーや、ロープーウエーがあって、上で暖かいコーヒーが飲める売店くらいあるのかな? 程度に考えていました。

 

 ただ、クックの麓まで テイカポから100キロありますし、仕事の合間のせわしない男の旅だったので、

その話には乗りませんでした。




マウントクックの話を続ける前に、ちょっと 登山について書かせて頂きます。

 

 (モンブラン)

マウント クックへ行ってから、7年経った2014年の正月。 

私は 例によって寝正月しながら 日本のバラエテイー番組を見ていました。

鑑定団、トリビア、仰天ニュース ロンブー などの名シーンが続々アップされており退屈しません。

 

中に、イモト アヤコが 行ってQ で、キリマンジャロ マッターホルン、アコンカグア、マナスルなど 世界の名峰を克服する番組があり、特に モンブラン登頂を見て、度肝を抜かれました。

 


 
(一生食べ続けたいほど大好物です。)

マロンが のったケーキの事をモンブランと言います。

 これは、モンブランの頂が ドーム状に平べったく、丁度 マロンを半分に切った デコレーションににているからです。


 私は、そこに、グランドでもあって 子供たちが サッカーや ドッジボールをして遊んでいるのかな? 程度に考えていました。

 ところが、実際は、高山病、落雷、酸欠、雪崩、クレバス (氷の裂け目で 大きいものは 100mの深さで口をあけています)など 危険と隣り合わせで、プロを含め毎年 40名近い登山家が命を落します。

 

 奈落の底の様な クレバスを 覗き込んだシーンや 下ではなく、横に流れるイカズチ、滑落すると下が見えない垂直斜面を見て、お笑い番組なのに、ゾクゾク ハラハラで息をのむシーンの連続でした。

 実際、一瞬の気の緩みが大事故につながります。

 私はオーストラリアに来てから 、ずっと自分で描いた目標に挑み 苦しみ続けてきましたが、このイモトの挑戦は、 と オーバーラップするところが多く、思わず感動してしまいました。

  登山が危険なのは ある程度まで想定内でしたが、これほど 厳しいとは 夢にもおもいませんでした。
もう、生きて帰れなくて当たり前という 世界です。
 
   
    ここに掲載できませんが、興味のある方は アップされており、「モンブラン」「いってQ) などKEY ワードを入れると最後まで見れます。
 生きる勇気と、負けるなという 気力が わいてきます。

(登坂能力)

 いってQ 登山部の 面々を 見ていると、アドバイザーが 40後半-60代。(シェルパーといわれる
案内人も多数雇われ、危険を極限まで下げていますが、) 一応 カメラマン スタッフ や デイレクターも同時に登頂を果たしています。

 それに、三浦雄一郎氏の80歳、最高齢エベレスト登頂成功だけみると、登山というのは、身体能力より 寧ろ 経験と根性 高所適応能力だけで素質など ないのか? と 思ってしまいます。



 ところが 次の映像ご覧下さい。現在 世界 NO1と される スイス人 アルピニスト Ueli Steck (ウエリー シュッテク)の 登山シーンです。

これは、人間技ではありません。極めて類人猿に近い身体能力です。

 私は、最初 映像に不自然な部分があり、 プレステ 4 の プロモーションビデオかなと 思いました。
ところが、色々調べたところ 彼が アイガー北壁 (通常 隊を組んで 50時間は 最低かかります。 今まで 60人が挑戦して 30名 が 滑落死 しています。) を 単独 ハーケン無し ザイル無し 2時間47分 33秒 ( 2008年2月13日 )  で登頂したときの世界記録 公認映像である事がわかりました。

丸で 岩場を 猛スピードで走るクモの様です。 山頂付近では もう 全力疾走していますし。(笑)
とにかく 考えられないです。 是非 ご覧になって下さい。








彼は マッターホルン北壁、シュミッド・ルート  通常 10時間以上を たったの 1時間56分 ( 2009年1月13日 )で 登っています。それから、 一番難易度の 高い アンナプルナ 南壁も 遭難者を助けたあと 軽々と 登頂しています。

 

 

 

(山の危険)  

ネットは、 新聞や、地上波に比べると 規制が緩く、過激な記事も写真付きで掲載されています。登山の本当の過酷さがよくわかります。

 たとえば エベレスト他 K2 ダウラギリ アンナプルナなど 危険と言われる山は 何が道標かご存知ですか? 

 

過去の遭難遺体です。 (赤いジャンパーにきたら 上に進路を変えろ。といった具合です。)

まさか? ですよね。

 

高度 5000mを超えると ヘリも空気が希薄で安定して飛べません。突風もふきます。

 おまけに、7000mを超えると デスゾーンに入り、遺体を降ろす以前に、自分が生きて帰れるか?が 最大課題となります。 それに、下山時の方が遥かに危険で、人を降ろすということは、100キロのおもりをぶら提げての下山となり、足をすくわれかねません。回収されることもありますが、殆ど、 山に置き去りになっています。

 

 エベレストの山頂付近に女性遺体があります。

これは、夫婦で登頂を目指した登山家ですが、奥さんの方が足の感覚を失くし登頂断念します。

仕方なく、亭主一人、山頂を極め帰って来るのですが、奥さんの足が凍傷にやられ下山不可能であることを知ります。絶望の余り男性は、崖から身を投じ自殺してしまいます。

残った、奥さんも低体温症でその夜 息を引き取ります。

 

 飛び降りるくらいなら、一か八か 二人で下山を試みたら? と 我々素人は思いますが、道の険しさを知っていれば とても 出来ないそうです。

 

 

 次にエベレストは 世界一高いので、これを極めたら全山制覇のように言われますが、実は、登山難易度でいうと、エベレストより 難しい山は 沢山あります。

エベレストを100とした場合、アンナプルナ南峰 450、K2 400、ナンガパルバット 350、ダウラギリ 200、マナスル 150 (因みに 富士山は 30 難易度ランク 405位です。) 




(アンナプルナ 右が南峰  正直 怖すぎる)

アンナプルナ は ネパールにある山で 高さは世界10位です。(8091m)

今まで130人が挑戦していますが、53人が死亡。 (致死率 40.80%) 何と 5人に2人は生きて帰れません。道標になってしまいます。

 1950年 63  モーリス エルゾーグ と ルイス ラチェナル が 無酸素で、北壁ルートで初挑戦、初登頂を 果たします。 モーリス エルゾーグ は、彼の経験を 『アンナプルナ』 という 本にし 1100万部の大ベストセラーになりました。 彼は、93歳の生涯を閉じるまで、政治家として大臣までした人です。

 

 ただ、彼は 山頂付近で 手袋を落し、凍傷で、手足の全指を失くしており 空港で出迎えた人々は、余りの凄まじさに思わず絶句したそうです。残酷な現実ですが、失ったものを無駄にしなかった彼の精神力に 私は拍手ですね。

 

全然関係ありませんが、子供が手袋を失くさないよう、紐でつながったもの あります。

どうして、指を失くすほどリスクがあるのに、首 両手袋を 一本のヒモで つながないのでしょうか?


 



(未踏峰の 怖さ)
実は、これだけでは ありません。

 

この上に 未踏峰といわれる 誰も登った事のない山が数多く存在します。つまり、挑戦者の殆どが命を落しています。ぞっとしますね。

 



(梅里雪山 さきが槍状になっています。)
 
 
梅里雪山  (メイリーシュエシャン, Meili Xueshan と 読みます。

1900年から、世界各国から 挑戦していますが、未だ未踏です。

1991年 京大山岳会と中国登山隊合同で アタックを試み 頂上まで270mに迫り、初登頂目前でしたが、雪崩が発生、17名全員死亡しました。

 それにしても、270mは、惜しい。残念です。

通常 登坂角度 40度と言うと そそり立つ壁の様で 人間も立つというより へばり付いている感じです。 この山は、写真でもお分かりのように、分度器をあてると 50度くらいあります。足場が一つでも崩れたら まっさかさまですね。

 

他にもカイラス山などがあり、1998年 日本の登山隊が行方不明になっています。見るからにロッククライミングばかりで登れない山です。

 
 
(カイラス これはもう死にに行くような!!)


Ueli Steck には、是非、未踏峰を悉く制覇して欲しいです。そうすれば 彼の名声は
永遠の伝説になるのに。


 

 

(Mt. クックに 話を戻します)

高さ、3724m 富士山より50m低いですが、 LAKE テイカポから見た、マウント クックの雄姿が 何故か気になり、7年も経ってから調べました。

(山頂でコーヒーなんて とんでもないことが分かりました。)

 

そんな事してたら、コーヒーカップどころか、命まで吹き飛ばされます。

登山難易度ですが、モンブランですら ランク 4 です。

(因みに 富士山は 2 です。) 

 

マウント クックは?、何と 7 です。(南米最高峰 アコンカグアより、難易度が高い事になります。) 2011年までに227名が亡くなっており FATALITY は エベレストより遥かに高いです。

 

毎年、何百人もの登山家が 挑戦しますが、処女登頂から10年の間 僅か2組しか 成功しておらず、途中で 断念 もしくは、行方不明になっています。

 

 もし、私が彼のサジェスチョンを 真に受け、ちょっと コーヒーブレークのつもりで MT.クックに登っていたら、今頃 裾野の底辺辺りで、遭難していたと思います。

 

道標というより、『こんな低いところで 死ぬなんて?!』と、お笑いになっていたかもしれません。



拍手[1回]

【2014/03/04 05:27 】 | 紀行文(ワインを啜りながらお読み下さい。) | 有り難いご意見(0)
連載 吾が心の ヨーロッパ

これから 私のヨーロッパ体験記を連載させていただきます。

皆様の今後の旅行の参考になれば。と思います。

 

 

ヨーロッパから帰り約1週間が経ちました。

自分では完全に旅行気分が抜けているつもりですが、未だに妙な夢ばかり見ています。




エリザベス女王の居城 バッキンガム宮殿。実物見てきましたが、想像以上(必要以上)に巨大で優美な建物です。

 

荘厳な宮殿風建築物の前にいます。

何となく見覚えがありますが、良く似た建物を沢山見てきたので、俄に何処かわかりません。イギリスのバッキンガムか、フランスのベルサイユ。そんな感じです。

 

どういうわけか? 高さ10mはありそうな 巨大金網フェンスが張り巡らされ、我々は 丸で動物園のオリに入った状態になっています。

 

 

突然 けたたましい警報が鳴ります。ウイーンウイーン言っています。

「猿の大群が押し寄せてきました! 決して目を合わさないよう ご注意下さい。」

アナウンスは何故か日本語です。

 

  一般的に猿は可愛いキャラですが、実は危険動物です。

特にチンパンジーは成人して顔が黒くなると猛獣にカテゴライズされ、動物園でも気をつけないと大怪我をします。

 猿は余程、顔にコンプレックスでもあるのか目が合うと興奮する習性があります。
人間でも、丁度、街でチンピラが、「お前、メンチ切ったな」と言いがかりをつけてくるのに似ています。

 

 警報通り 10匹程度のサルが 金網伝いに押し寄せてきました。
猿の爪と金網が擦れ合う、ギリギリという鈍いきしみ音が聞こえます。

 良く見ると日本のカニクイザルです。「海外にも日本猿がいるのだなあ。」と 恐怖を抱きながらも、結構 暢気に見ています。

 

ふと、振り返ると、いつも一緒にいる家内が見当たりません。

 

 私は、日本語で警報を聞いている事を完全に忘れており、「大変なことになった。家内はアナウンスが分かっていないかもしれない。今頃 サルの餌食になっている。」 と 真っ青になっています。

 





 何処に行く宛もなく サルが来る方向に背を向け 
遮二無二走っていると、いつしか カニクイザルが白手長ざるに変っています。 物凄い勢いで 横から頭の上から 私を追い越していきます。

 

 数もいつしか増え何匹いるか?分らないほどで 道がサルで真っ白になっています。
 目を合わすなと言われても サルしかいないので、否が応でも目に入ってしまいます。

 

「ああ。こんな所で猿にやられるなんて。もう駄目か?」と、思った瞬間 目が覚めました。

 

 フロイトは、現実の事物が、夢の中で象徴的な物に化け 形を変えて現れるという学説を打ち立てています。(私は、夢は奇想天外で、あれほど俊敏に 睡眠中の頭ははたらかない。何か間違っている。と、常に思っていますが)

 

 ただ、今回の夢をフロイト的分析に当てはめると、蟹食い猿は日本人の象徴です。

それが 夢のどこかで 脳がヨーロッパであることを思い出し、白人の象徴でる白手長猿に変ったのだと思います。人種は雑多でしたが、皆一様に目が大きく綺麗でしたね。 

 

 

 もう一つ 夢のお話です。






ルーブル美術館 ニケの近くにある飾り天井。それにしてもゴチャゴチャしています。

 

バチカンやルーブルの美術館、ベルサイユ宮殿等 で お馴染みの光景ですが、

 天井から装飾品が落ちてきそうな回廊を歩いています。

 素材はなにかわかりませんが、大理石に見えます。

腕一本でも 落ちてきたら 大怪我しそうな感じで地震でもきたらどうするのか?と思います。

 

 廊下の最終点近くに  しょぼい ブースがあり、きちんとした身なりをしていますが、ちょっとイケズそうな女が立っています。

 

実は これが曲者です。

 

 ブースの奥に何か曰くありげな古い階段が見えており、行列はそこに流れていっています。

 

 私は、わけもわからないまま一緒に並んでいます。

行列はスイスイ進み私の番になったところで、いきなり、このチケットでは入れない。買いなおせ。みたいな事を言われます。

 

 私は、「それはおかしい、全て見れるのを頼んだ。」と、食い下がっています。ところがこの女、立て板に水で完全に無視しています。私を丸でクレイマー扱いです。

 

 まあ、古ぼけた階段の先に何があるのか?分らないし、並びなおすのも面倒なのでどうでもいいか。と諦めかけた頃、何処から現れたか家内が、

「これは 典型的ヨーロッパ的思考で、日本人を馬鹿にしている。」 みたいなことをボソボソ呟きます。

 

 私は、丁度 消したばかりのストーブに乗せた土瓶の様に ジワジワ腹が立ってきます。 そして、意味もないことを捲し立てています。

 

 彼女は相変わらず黙っており、五月蝿い ハエの様に時々 チラッと

みるだけです。眼差しは氷のように冷たいです。

 

私は、怒り狂って 最後は、「俺は ルイ14世と遠縁だった。」 みたいな事を言って他の人から白い目で見られています。

 

夢から醒め、正直ホッとしました。

たかがチケットの為に、どうして俺はこんな恥さらしをいっているのだ。という自覚が夢の中でもありましたから。

 

 実は、この夢は ある苦い経験に基づきます。

 

 ベルサイユ宮殿で 不覚にも チケットを失くしてしまいました。

本殿の中では特に見せる所もなく 無事見学できたのですが、問題は

驚くべき広大な庭です。

 

トリアノンという離宮が点在し、一々チケットの提示が求められます。

失くした経緯を詳しく説明し 領収書まで見せているのに 全く埒があきません。

 

 勿論 落す方が悪いに決まっていますが、チケットは所詮紙切れです。

うっかり失くす事もよくある話です。

 特に旅先では、地図やパンフで、やたら紙切れが増えます。 それに、頻繁に地図をだして方向の確認が必要で、紙と紙の間に挟まって落ちてしまう事もあります。

 

 日本や、オーストラリアでは 熱心に説明すれば、「気をつけて下さい」と、仮チケットをくれたり、「今回だけ大目にみます」 と そっと通してくれます。(実はそれ狙いで、わざと食い下がるのですが)

 

 ところが、何なのでしょうね、ヨーロッパのあの 頑固さ (厳格さ?)

全く融通がききません。 ある程度 緩くしないと観光国としてのイメージが悪くなると思いますが。

 

 

 

 

拍手[0回]

【2014/11/03 20:42 】 | 紀行文(ワインを啜りながらお読み下さい。) | 有り難いご意見(0)
第一章 吾が心のヨーロッパ (準備編)

どの辺りから ヨーロッパが登場し紀行文らしくなるの?と思われるかもしれませんが、余り人文、地理、歴史を書くつもりはありません。そういう事は、歴史家や学者の仕事で、私が書いても薄っぺらで深みがありません。

 

 勿論、歴史なくしてヨーロッパは語れませんから、適当に入れますが、軽妙洒脱を旨とする堤ブログですから肩が凝らないよう、即ち どうでもいいような事ばかり 面白おかしく書くつもりです。

 

 先ず、私の様な中高年が年々失せて行く好奇心の中で どの様にヨーロッパ旅行を決断したか? この点から書きたいと思います。

 

 

 私は元々旅好きでした。

旅が好きというのは、(私の場合に限ってですが) 一人物思いに耽ったり、テクテク歩くのが好きから来ています。勿論、歩くのが苦手でもドライブが好きなら旅はできますが、旅の醍醐味は、やはり、街の練り歩きにあり、今回も靴が磨り減るくらい歩きました。

 

 ただ、旅が好きでした。とわざわざ過去形で書いたのは、今は?というと ちょっと微妙だからです。


 ご存知の通り 私は、銀行マンから商社マンに転職しています。

 

 銀行は、出張の無い世界で、血気盛んな時期には つまらない業種です。

何故 出張が無いのかというと、丁度 国境の様に銀行各支店には縄張りがあって、他の店の地域に侵入できない決まりになっています。

 

 たまたま他の地域の仕事が舞い込むと、業務連携とかいって、

「お宅の領海の方が 私の店に来てまっせ!! 連携させていただきます。」 と 一番最寄の店に顧客を戻さないといけません。

 

 私は 都銀に5年勤務しましたが、研修で天満に行った以外出張した記憶がありません。

天満というと大阪以外の方には馴染みがありませんが 私が勤務していた淀屋橋の本店から 歩いていける距離で出張なんて呼べるものではありません。

 

 そういう旅の無い銀行員生活が基礎にあったので、商社にかわって数年は夢の様でした。

回りが 出張出張で ザワザワしています。

 







横に座っているおっさんが、大きな荷物を抱えてきたので、

「岡道さん 何処行くんですか?」なんて聞くと、

「ああ、NY に2週間行ってきます。」

 

「ええ~~! 羨ましいですね。連れて行ってください。」

「今年 3回目ですよ。 もう うんざりですヨ。代ってください」 なんて贅沢いってます。

 
 すかさず 後方に座っていた支店長から、

「岡道。 五番街の スズランって店あっただろ。 貴子ちゃん 元気か見てきて!!」 なんて声が飛びます。

「貴子 随分前に 辞めたじゃないですか。」
(私は 聞いてないふりしていますが、心の中で、なんだ 二人とも貴子 知ってるんかい!! と 思っています。)

 

勿論、スズランは いうまでもなく日本のワーホリを集めている キャバクラです。

まあ 昼間は真面目な顔していますが、夜何をしているのか分らないのが、商社マンです。

  




 私の悪夢は入社 数ヶ月目からもう 始まりました。

というのは、他の石炭部や 物資部の連中はチームで動いています。

「前回は 俺がいったから こんどは お前が行け」

「え? いつも そう言われますけど私ばかりですよ。」 みたいなやり取りをしながらも 出張分担できます。

私は、畜産と食品に所属していましたが (後に物資、資源開発も引き受ける羽目になりました。)

私一人です。

 

 どんな出張生活をしていたかご紹介しますと。

QLD州の北、エメラルドという町があります。 そこから 更に 3-4時間内陸に入ると、ミドルマウントという ど田舎があります。「ハエってこんな大きな音で飛ぶの? 」と 驚くほど静かなところです。そこで 丸々一ヶ月生活した事があります。

 

 ある種装置の備え付けの監視でしたが、最初、じっと見学していました。そのうち気が狂うとおもうようになり、もう現場の人に混じって!というより、一番必死で土方仕事をしていました。早く帰る為です。

 

 他にも長い出張は色々ありましたが、シドニーの担当者が忌引きで一時帰国してしまいピンチヒッターで数週間行った事もありました。その時は楽しかったですね。ホテル暮らしで、シドニーは大都会ですから。

 

 長さだけではなく、出張がオーバーラップしていることも頻繁にありました。

 QLD州北部に出張していて、オフィスに電話すると、「マウント ギャンビアに直ぐ行ってくれ。」 と 言われたことがあります。

 

「え。 マウント ギャンビア? 何、それ??」 と、 地図で調べると、何と 南オーストラリア州で アデレイドの近くです。(材木積み出しを見に行け という仕事でした。) 私は亜熱帯のQLD州北部で

5月くらいでしたが 半袖 綿パンという イデタチです。

マウント ギャンビアに着いた途端 皆 分厚いコートを着ており、震え上がったのを覚えています。

 

 2-3年は 結構 そんな生活を楽しんでいましたが、段々同じ場所への出張が増えたりして退屈になってきます。それに、余り長くなるとホームシックにかかります。

「ああ、 家族と ゆっくりしたい。」

「娘やペットと 遊びたい。」 という感じです。

 

 

 別に商社マン時代の愚痴をたらたら?羅列しているのではありません。

ヨーロッパに行く前に旅をどう捉えていたか ちょっと 触れさせて頂きたいのです。

 

 

 ヨーロッパへ行こうと 家内との間で 話が持ち上がったのは 彼是 7年くらい前だったと思います。

その間、ビデオカメラを買ったり デジカメを買いなおしたり 準備ばかりしていました。

ヨーロッパのガイドブックも、殆ど 東欧 北欧 西欧 と、揃えました。要するに行きたいという気持ちが高まるよう環境を整えていたのです。

 

どうしようもなく高まって行く家内の意識と裏腹に 私はどんどん醒めていきました。

 

先ず、ノイシュバンシュタイン城やモンサンミッシェルなど 見たい所を全て網羅すると一ヶ月くらいかかります。

 これは、私の様な個人事業者にはかなりきついです。「ああ~ゆっくり静養した。」と 帰ってきたら 

誰からも相手にされなくなります。

 

  それから、ヨーロッパ滞在中も常に 家が気になります。

いくら現地でスリに遭わないよう、物を落さないよう注意しても、家が泥棒に荒らされ無茶苦茶にされたのでは意味がありません。

 

 それら、しがらみが色々あって、中々踏み切れずグズグズしていました。

でも、2014年度の上半期の利益の状態から、今年 万が一いけなかったら 恐らく 65歳の引退まで無理だと思うようになりました。
 と、いいますのは、仕事の内容が長期安定とはとても考えられないものが、屋台骨になってきており、いわゆるフロック。まぐれ当たりのビジネスが中心になりつつありました。こういう状態になると、儲かっている時に行っておかないと仕事自体が崩れだしたら何時までも行けなくなるからです。


万難を乗り越え 今年、行こうと思うようになりました。

 

 

 

 

 

 

 

拍手[0回]

【2014/11/11 07:40 】 | 紀行文(ワインを啜りながらお読み下さい。) | 有り難いご意見(0)
吾が心のヨーロッパ (準備編 その2)

私は、30年ほど前、新婚旅行でオーストラリアに来ました。その時、旅行社に対して、たった6日間のツアーに150万円支払った記憶があります。勿論、二人分の料金でしたが。

 

 今思い出してみると、ホテルはビーチコマ、メンジーズ OLD SYDNEY INN、三流とは言いませんが一流ではありません。150万円もとるなら 所詮ツインシェアでですから、ホテルは、シェラトン ミラージュ、 ウインザー、 ベルサーチクラスでないと割にあいません。また飛行機も寿司詰めエコノミーでしたが、最低ビジネスクラスがアレンジできる筈です。

 

 

 今なら、二人3500ドルってところでしょうか?JET スターなど 格安航空会社(LCC)もできましたし。

実際、新婚旅行の半年後 永住下見の為、自分達でツアーを作って来ました。

少し現地の事情も分ったので、メルボルン - シドニー間にサザンオーロラ号を入れたり、シンガポールで一流ホテル(メリデイアン)付き観光を入れたりしましたが、50万程度の出費で大変内容の濃いツアーに仕上がりました。勿論ホテルも、ウインザー(メルボルン)やリッツ カールトンクラスでした。

 

 思えば、インターネットの無い時代、旅券代もホテル代も旅行社の言いなりでした。

当時は相手が海外だと、ホテル予約一つできませんでしたから、

現地で、ホテルのパンフレットを見て、その代金の安さに愕然としたものです。

『やられたー』という感じでしたね。

 

 まあ、そういう苦い経験から、私が最初に描いた構想は、(構想と言うほどのものでもありませんが、)旅行社は使わない。という事です。旅券、ホテル、交通手段、入場券まで全て直接サイトから購入しようと思いました。

 

 

(準備開始)

旅行社はつかわない。

と勇ましいこと言っても、ヨーロッパは初めてです。

インターネットが盛んになっても、大手旅行社はしっかり生き残っています。もしかすると旅行社の方が卸売り価格で安いかもしれないという思いはありました。

 

そこで、一応ローカルの トラベル エイジェントを何度か尋ねました。

正直 美味しい情報は嗅ぎつけられないよう隠そうとする策士の雰囲気がアリアリ伺えました。

突っ込んだ質問すると、『一応仮押さえしておきますね』 とか、『もう少し 具体的になったら

此方でやりますから』と、ポイントをはぐらかされます。つまり、客に知識を与えないよう先回りしながら動いています。

 

勿論、私はとぼけるのも得意ですから、何も知らない感じを出しながら、それでいてヨーロッパに行きたいという情熱を、たぎらせながら打診しました。(おつむが悪くて、買い気満々の客を装いました。)

案の定 マレーシアン エアラインで7500ドルのチケットがスペシャルであるというのです。それも、何処を回るのか大変長時間フライトです。詳しく調べると、ドバイやチャンギでの連絡が極めて悪い便でした。

 早速 カンタスや エミレーツを、直接HPで調べたところ もっと早くて快適そうなのが、4500ドル前後で沢山でていました。勿論二人分です。

 

もう かなり 旅行社にはしらけていましたが、やはり、過去の怨恨も合わせて一つ二つ小言を言わないと気がすみません。 そこで、「ちょっと考えます。それにしても、よく連絡が悪くて高いチケット見つけましたね。」 みたいな嫌味をサラッと言いました。後から、もう少しネチネチ言った方がよかったかなとも思いました。

 

でも、これはあくまでエアラインの話であり、航空会社は何処も薄利で、極力インターネットを充実させ直接顧客を掴もうとしています。LCCは特に、安くした分旅行者に吸い取られたので意味がありません。

ただ、ホテルに関しては、コーポレートがあり旅行社やブッキングサイトの方が安い場合があります。慎重に直のHPに出ている値段を比べられる事をお奨めします。

 

 




(ノイシュバンシュタイン城
狂王とか言われ、不審死を遂げたルートビッヒ2世の城ですが、彼は此処に思い入れがありながら
たった2年しか住めませんでした。実際に行きましたが、私なら半年で、もういいかな?と思いました。
不便ですわ。城までの道が険しすぎます。それに孤立して寂しすぎます。近くで見たら大した事無いし。)


最初 行きたい所を点で、色々リストアップしました。

 キンデンダイク アンネの隠れ家 大英博物館 モンサンミッシェル ノイシュバンシュタイン城

コロッセオ ベルサイユ宮殿 という感じです。

 

ところがそれを、どう線にしたら良いのか?が分らず非常に苦しみました。

 

正直 ヨーロッパの地図が頭に入っておらず 何処から入ってどう回れば良いのか? 皆目検討がつきません。入国と出国は同じ国でないとチケットが高いので、イギリス フランス ドイツ など

色々な国を軸に計画を立ててみました。

 

 何とか線にするのに約一ヶ月くらいかかりました。

結果、なんと7カ国 一ヶ月というとんでもない旅行になってしまいました。

拍手[0回]

【2015/02/21 07:37 】 | 紀行文(ワインを啜りながらお読み下さい。) | 有り難いご意見(0)
吾が心のヨーロッパ (準備編その3) 何と20泊21日のツアーに。

 普通日本で旅行というと長くても9泊10日です。
それでも、後から親親戚から何といわれるか考えると怖いです。私達も、あれ辞めよう、これは今回 辞めようと思いっきり消去したつもりでしたが、結果 20泊21日のツアーになってしまいました。


もう 特攻隊の心境でしたね。

私が作成したアイテナリーを 添付させて頂きます。何かの参考にしてください。
無茶苦茶なツアーなので あまり 参考にはなりませんが。





9月
8 (月曜日)DAY 1  

ブリスベン空港発 アムステルダム 着 (同日) 午後 8時

到着後 アムステルダムにて 2泊

ホテル名:

Inntel Hotels Amsterdam Centre

ホテル住所:

Nieuwezijds Kolk 19   +31 (0)20 5301818  

ニーウエゼイズ フォールブルグワル通りから入る。コルク通り

スキポール空港から国鉄で20分 10ユーロ 3番線。中央駅からホテルまで

徒歩10分。

 

9月9日 (火曜日) ザーンセ スカンス観光  DAY

 

 

アムステルダム中央駅からアルクマール行きで各駅停車で約15

Koog Zaandijk(コークゥ ザーンダイク)駅下車徒歩15

 

アムステルダム中央駅Amsterdam Centraal Treinstation から徒歩3分の CS Oosterdokskade Amsterdam から近郊バス91Zaandam方向行きで所要約35 Zaanse Schans Zaandam 下車すぐ目の前です。

 

 

朝 HEMAにて寿司購入 ザンセスカンスの濡れたベンチで食べる。寿司の味がしないものもあった。

 

9月10日 (水曜日) DAY 3

早朝 ベルギー ブリュッセルに。

ホテルチェックイン 市内観光。グランパラス 小便小僧 王宮 など

 

 

ホテル名:

NH Grand Place Arenberg Hotel

ホテル住所:

Rue d'Assaut 15

エリア/都市/国:

Brussels City Center/Brussels/Belgium

 

 

(このホテルは最高だった。)

 

 

(交通機関)

THALYS  9328 

9:18 アムステルダム CENTRAA駅 

11:08 Brussell  MIDI 駅 着 

ミデイ着後 セントラルまで移動 セントラルから徒歩10分。(途中 チャペル駅があるのみ)

車窓進行方向右に巨大王宮が見える。

MIDIでトイレ 早速50cユーロ取られる。

 

 




(寂びた中世ヨーロッパを想像していましたが、結構 観光熱心でした。ブルージュ)
 
9月 11日 (木曜日) 
DAY

ブルージュ ゲント 終日観光 

ブリュッセル泊

 

朝食ブルージュ駅にてバゲット サンド購入。

昼はゲントにて、ローカル料理。

 

(交通機関)

ブリュッセルから 国鉄で 50分 行きはブルージュ直通 帰りは ゲントに立ち寄れるチケットにする。 日程がきついので日帰りツアー。

  • 南駅→中央駅→北駅→ゲント→ブルージュ

 

9月12日 (金曜日) DAY5

ロンドンへ  市内観光  ウエストミンスター寺院 大英博物館  ロンドンアイ

ロンドン泊 

 

(宿泊)

DoubleTree by Hilton Hotel London - Islington

60 Pentonville Road | London | | United Kingdom N19LA

T: 44-2072825500 | F: 44-

パンクラス駅から メトロで ANGEL 駅へ 一駅 徒歩

また ホテルから パンクラスまで 歩いて 10分

 

(交通機関)

Eurostar  9117

Direct - 2h05m

 

12/09/2014   08:52 BRUXELLES MIDI

12/09/2014   09:57 LONDON ST-PANCRAS

 

AUD 152

 
(イギリス人に一緒にするな!といわれかもしれませんが、ブリスベンと全く同じ感じでした。ロンドン)

 

 

 

 

 

 

 

9月13日 (土曜日)DAY6

引き続き  ロンドン市内観光

ロンドンタワーブリッジ ロンドン塔 バッキンガム宮殿 オックスフォードサーカス

ロンドン泊 

 

Point of interest

Apple Corps Ltd

3 Savile Row, London, UK (ビートルズ LET IT BE 会散前のROOF TOP CONCERT)

 

 

9月 14日 (日曜日)

パリへ 到着後市内観光 モンマルトル


パリ泊   宿泊ホテル

 

キリアド パリ 10 - ガル デュ ノール

37 rue Saint Quentin

10th arr. - République

Paris, 75010

ナポレオンⅢ世広場から サンカンタン通りを探す。駅の前

 

 

交通機関

Euro star 9029 coach 3

13:31 London St Pancras

16:47 Paris Nord

 

昼 駅構内のランチ弁当店にて種々パン サラダを購入。

 

 

9月 15日 (月曜日)

 

モンサンミッシェル 観光 

パリ泊

 

 

 

Forward

+ Return

15/09/2014 07:04 PARIS MONT PARNASSE

15/09/2014 09:19 RENNS

 

 

 

 

TGV Atlantique 8705 Direct - 2h15m

 

 

 

15/09/2014 18:22 PARIS MONTPARNASSE

 

 

 

TGV Atlantique 8016

Direct - 2h19m

 

 

 

15/09/2014 16:03 RENNES

 

 

 

▲アクセス

NORDから 朝5時29分のメトロにて モンパルナスに行く。

モンパルナスからTGVでレンヌRENNESまで約2時間

レンヌ駅北口(SORTIE NORDと表示)より約50メートルのところにあるバスターミナル(GARE ROUTIERE)からモン・サン・ミッシェルまで直通バスが運行。バスに乗ると左側に座る事。(ミッシェルが見える)

 

 

9月16日 (火曜日)

ベルサイユ宮殿 観光

パリ泊 

 

交通機関

 

パリ「Montparnasse(モンパルナス)駅」からフランス国鉄(SNCF)利用

Versailles Chantiers(ヴェルサイユ・シャンティエ)駅下車 宮殿まで約1km

ヴェルサイユ・シャンティエ駅から宮殿正面までのマップ

 

9月17日 (水曜)

終日パリ市内観光。

ルーブル美術館 (チケットは GARE DE NODE 観光局にて 購入) コンコルド広場

シャンゼリゼ通り 凱旋門 エッフェル塔 見学。

 

 

9月 18日 (木曜)

ドイツ ミュンヘンに移動  即 市内観光。

終着駅はPASSING CENTRAL まで 移動 (数駅)

 

(宿泊ホテル)

ホテル名:

Schiller 5 Hotel & Boardinghouse

ホテル住所:

Schiller str. 5.

Hauptbahnhof/Munich/Germany 

駅から徒歩2分

 

 

交通手段 TGV 

18/09/2014   07:25 PARIS EST

18/09/2014  13:18 MUENCHEN PASING

 

 

 

TGV 9571 / ICE 1091

1 connection - 5h53m

 

 

9月19日 (金曜日)

ノイシュバンシュタイン城見学 

午前8時10分 中央駅前に集合。ガイド NANCY

 

夜遅く帰ホテル。

 

9月20日

朝 フィレンツへ フィレンツ泊

 

ホテル名:

Hilton Florence Metropole

ホテル住所:

Via del Cavallaccio 36

エリア/都市/国:

Isolotto - Legnaia/Florence/Italy

交通手段

 09:38 MUENCHEN HBF  20/09/2014

 17:10 FIRENZE S M N   2 travellers  AUD 332  

   Eurocitybrenner 85 / Frecciarossa 9573

1 connection - 7h32m 

SMNは サンタマリア ノベラ駅 改札を出て左折 徒歩10分に送迎バス駐車場あり。車でホテルまで13分。

 

 

 9月 21日 

ピサの斜塔 見学 予定 (中止) 日曜の為 列車キャンセル 

変りに フィレンツエ観光。

フィレンツエ 泊

 

見学場所。 ドーモ 天国の扉 

昼、CAFEでピザ 2回食す。ピザハット以下だった。ガッカリ。

 

 

9月22日

フィレンツから ローマに 早朝移動。(午前8時 ホテルから 送迎バスあり 8時40分到着)

ローマ市内観光  トレビの泉 スペイン階段。

 

HOTEL GIOBERTI

Via Gioberti, 20 - 00185 Roma

Reservation Dep Tel. +39 06 83 39 49 71

Reception Tel +39 06 44 40 625

Fax +39 06 44 40 622

http://www.hotelgioberti.it - marzia.f@hotelgioberti.it

 

(交通機関)

 所用時間

22/09/2014 09:38

22/09/2014 11:10 ROMA TERMINI

 

AUD 61

 

Frecciargento 9407

Direct - 1h32m

 

9月 23日(火曜日)

 バチカン市国 システイーナ観光 サンタンジェロ城 コロッセオ観光。

チケットーーー午前9時30分 2KISIQH70000002RQ 2People

 

9月 24日 (水曜日)

ローマ 市内観光 (ローマPASS 48時間券を 買う --- 中央駅26番線に窓口あり)

ホロロマーノ 真実の口(サンタマリア教会) カラカラ帝浴場後

 

 ローマ ジオベルテイ泊

 

9月25日 (木曜日)

午後 アムステルダムへ 飛行機で 空港まで 直通バスあるのだが、その日は運休。仕方なく電車でCENTRAA へ。 4ドル・PP 約1時間のドライブ。

アムステルダム 5つ星 ホテルオークラ SWEET ROOM 宿泊 晩 ミシェラン 2つ星 レストランで食事。(400ドル)

 

9月26日 (金曜日)

土産とDUTY FREE 買い物。

ホテル オオクラ 

ホテルから空港まで移動はタクシー。(ベンツE220)

 

21時40分発 アムステルダム ドバイ行き 

 

9月28日 午前ブリスベン到着。

 

拍手[0回]

【2015/02/23 06:43 】 | 紀行文(ワインを啜りながらお読み下さい。) | 有り難いご意見(0)
吾が心のヨーロッパ 準備編 第4章。

日本を代表する建築家、黒川紀章。

 

 

心斎橋のソニータワーも彼の設計ですが、完成当時、思わず、「でかした。黒川!!」と、叫んでしまいました。

 当時、ソニー=世界最高ブランドというイメージが定着しており、その威容を誇示する上でも最高の立地、最高のデザインでした。

 

彼は、生前、自分が書いた設計図の中を足が棒になるくらい歩く。と言っていました。

つまり、何処かの空き地に行って、自分がデザインした想像の建物の中を歩き回りシュミレーションするのです。

「此処に非常口をつけたほうが良い。」

「もうすこしこの辺り、スペースを増やそうか。」という感じだと思います。

 

私は、その黒川発言があったからかもしれませんが、自分の旅程表ができてから、GOOGLE MAPを駆使し、毎晩毎晩、いく先々の街を歩きました。

大変上手くできており、もう、現地に行かなくてもいいか。とさえ思えました。

 

 ただ、何処へでも入っていけるわけではないのと、歩いていると体が勝手に回転して方向を失います。時々変な場所にトランスし何処を歩いているのか分らなくななることもあります。実際、帰国してからの方が多少ましに歩けるかな?と、懐かしさにかまけて歩き直しましたが結果は同じでした。

 

 それに、私は奥へ奥へ入っていくゲームは船酔い状態になり、長くすると気分が悪くなります。最後はいつも青い顔をしながら、吐きそうになりながら歩いていました。

 

歩きながら宿泊するホテル、駅までの道順、訪れる名所の位置確認など色々自分なりにポイント設定し、スケジュールやホテル、高速鉄道などのアレンジに手抜かりはないか?美術館、博物館で前売りチケットの必要なものも手当てしているか?チェックしていきました。

 

実際、これ以上の準備はあり得ないというところまできていました。

 

ところが、そんな時、ドキンとする出来事が起きました。

 

 

 私達の出発は9月8日月曜日 午前2時のカンタス便でした。

それをどう勘違いしたか、私も家内も月曜日の午後6時ごろ、犬と貴重品を北に住む娘のところに預け、夜11時ごろ早めに空港に行こう。と計画していたのです。

留守中家の面倒を見ていただく友達にも、翌日火曜日から来ていただく約束をしていました。

 

出発3日前になって、家内が急に、

「出発日なんだけど、月曜午前2時出発ということは、 私達、日曜日出発でないとまずくない?」

と言い出したのです。私は、まだ、出発してもいないのにドキンとしました。

全くその通りです。午前2時の飛行機に乗るのに月曜の夜空港に行ったのでは火曜日の飛行機になってしまいます。

 

大事に至る前に気付きましたし、単なるお粗末な勘違いのお話ですが、私は頭に杭を打たれたようなショックをうけました。

というのは、こんなボーンヘッドで、いままで、列車やヨーロッパを移動する飛行機など交通手段、ホテル、入場券など等、大枚はたいてブッキングしてきましたが、もしかすると時差や日程を間違えて一日ずれていて全部駄目になるのじゃあないか?と急に不安になったからです。

 

再確認の結果、それ以外では特にブッキング上の問題もなくホッとしました。

万が一、最初の一日がずれていたら大変な目に遭っていたことを思うと、今でも怖くなります。

 

ちょっと、出発数日前の心境について書かせていただきます。

 

我々皆、子供時代を経験して大人になっているわけですが、(飛び級とでもいいましょうか? 時々、おっさんみたいな子供もいますが) 私は今でも、夏休みに突入する終業式前日の晩の興奮が忘れられません。明日から、40日学校に行かなくて済むと考えるともう嬉しくて嬉しくて。未だにあれに勝る興奮は私の人生にありませんね。

 

 私は、ヨーロッパ出発の前日は、久々にこういう嬉しくて寝れないみたいな?興奮状態になるのかと期待していました。

ところが、心の老化は恐ろしいもので、新しい事を得る喜びよりも、築いたものが崩れないか心配する気持ちが遥かに上をいきます。

 

帰ってきたら家が泥棒にやられて無茶苦茶になっていないだろうか?
旅先でテロ、スリ、暴行に遭って嫌な思いをしないだろうか?
仕事は帰ってからも無事できるだろうか?
次から次へ心配は尽きません。

ただ、直前になってというより、ほぼ出発当日頃になって、急に冒険心とでもいうべきか、かなり長い間忘れていた闘争心の様なものが沸き起こりました。

 正確には、そういうモードに自分を切り替えた方が楽になれる事に遅ればせながら気付きました。

現地でフランス語を必死で習得し帰国したらペラペラになっていたり、通常のツアーでは絶対に行けない場所に行ったり、一年滞在しても中々此処まで到達できない通になったりという所でしょうか?

 丁度極寒のエベレストでも極める心境で、これだけの犠牲を覚悟で行く以上、一切弱音を吐かず、後で後悔しないよう必死でまわってやろうと思うようになりました。

 

つまり、楽しむ為ではなく苦労する為に旅に出た。という事になります。

拍手[1回]

【2015/04/21 06:59 】 | 紀行文(ワインを啜りながらお読み下さい。) | 有り難いご意見(0)
第5章 吾が哀愁のヨーロッパ (旅立ち)

 今回の旅で、価値観の崩壊とまで言うと大げさですが、自分が固く信じていた事が、ヨーロッパに行って随分ボロボロになりました。ちょっと、意外かもしれませんが、例えば英語です。

 


 日本では、
「これからの時代、英語ができなればまともに人間になれない」という風潮があります。
世界を結ぶ言葉のパスポートの様に言われ、私も、そう信じ英語だけに人生をかけた人間です。

 私が現在住んでいるオーストラリや仕事で良く行くNZは英語圏ですので「やはり、英語を勉強して良かった!」と、思っていました。
 
 ところが、 ヨーロッパに行くと、確かに、オランダ(会話可能人口90%)、デンマーク(同86%)、スウエーデン(86%)等では、良く理解されます。道を聞いても快く応じてくれます。オランダでは頻繁に道を尋ねました。発音や表現は極めて怪しいですが、まあ流暢には話します。


 それが、フランス、イタリア、ベルギー、スペインなどは厳しいです。(ローマはびっくりするほど通じませんでした。) 駅のインフォメーションや、ホテルのフロントでもないかぎり、全然通じません。

 
今回、私はスペインにはいけませんでしたが、スペインに行った人に聞くと、通じる言語が無く、相当辛いそうです。

 

 良く、フランス人は意地で英語を喋らないと言います。分っているくせに知らんふりするということです。

歴史的にイギリスが侵略していない国はあまりありません。

英国とフランスの間に過去、何時終わるともしれなかった100年戦争などがありました。 (丁度、ジャンヌダルクは、その時代の伝説的ヒロインです。)  その怨恨から、何時までも敵視することもあるかもしれないとおもっていました。

 

 日本人でも、よく他の国の人に間違えられてムッとする人がいます。


 私の丸紅時代の上司は、どうみても日本人には見えない人でした。

背も極端に小さく、私はピグミー族みたいだと思っていました。

 それが、他の国の人に間違われると、

"No , No , I am Japanese" 
なんて、口角泡を飛ばし必死の抗議をしていました。

 

西洋人でも
『ポーミー(イギリス人蔑称)や、アメ公と一緒にするな。!!』
、と言う感情があってしかるべきです。
 つまり、「フランスに来たら、英語で話しかけるなよ」ということなのかなと思っていました。

 

 案の定、話しかけても通じません。

それで、
「こいつ、しらばくれやがって」
とばかりに、執拗に英語で問い続けました。

でも、これは、ジェスチャーではなく本当にわかってないと、思いました。

というのは、意外とフランス人、親切です。
 英語全然喋れないのに、身振り手振りで一生懸命教えてくれます。それに、英語が分らない事を申し訳ないと、多少赤面し、真剣に困った顔をしています。

 



南米に行くともっと顕著になります。

スペイン語が、我々の感覚で言う英語で、世界共通語の役割を果たしています。

正確に言うと、ブラジルだけポルトガル語で、他は全てスパニッシュです。面積から言うと、ブラジルはロシアを除く全ヨーロッパより大きいですから、かなりの部分はポルトガルという事になりますが、ポルトガル語とスペイン語は良く似ており、コミュニケーション上然程、問題がありません。

 これは、私が適当に言っているのではなく東北大学でスペイン語を教えていたコロンビア人がそういうのですから間違いありません。彼女に言わせるとイタリア語も非常に似ているそうです。

 

 

ヨーロッパに行って感じた英語の位置づけですが、

「ドーバー海峡のかなたに押しやられた一言居士が話す特殊言語」

といったところです。





 確かに、イギリスはGDPもドイツに迫り、追いつき追い抜く勢いで優等生に違いありません。ロンドン郊外で、巨大油田が発見されたという話もありますし、これからも発展するのだろうと思います。

それでも、ユーロへの通貨統合を拒否し、今後EUそのものから離脱する可能性まで取り沙汰されています。気骨はありますが、ギリシャなど弱い国に足を引っ張られてたまるか!!というところが、何ともイギリスらしいです。

 


 ドバイはしかし、凄いですね。

 


次に、価値観が崩壊したのは、ドバイ、ヨーロッパ諸国の空港他、インフラの立派さです。

 


 関西空港を楽しいと思っているのは私だけでしょうか?
 

 私は、日本に帰り、その玄関口である関空に到着すると思わず誇らしくなります。

清潔で整然としています。

 床も沢山の人の往来があるのにダメージがなくごみ一つ落ちていません。

入国審査もスムーズで、それでいてポイントはキチンと抑えています。それに、大阪を代表する飲食店が軒並み出店しており、空港で美味しい食事をし、散策するのも楽しみの一つです。


 中でも、一番感動するのは無人電車です。
 広いターミナルを結ぶのですが運転手も車掌もいません。客は「単にエレベーターが横になっているだけ」感覚で、順番に規則正しく乗り込み、混乱もありません。私は、外人がいると、わざわざ横に行って、彼等の会話を聞いています。

案の定、整然としている。とか、清潔だ。などと口々に驚いており、「どうや。お前らの国、こんな凄い技術無いやろ」と つい心の中で自慢しています。

 

 日本での数週間の滞在を終え、オーストラリアに帰る時、私はいつも4時間くらい前から関空に行きます。特に国内線の一階にある、飯屋モドキは面白いです。

 味は残念ながら余り美味しくありません。まあ、日本では珍しいまずさです。

私が大好きなポテトサラダでも、べチャべチャで妙に水っぽいです。でも、焼き鯖、焼き鳥、卵焼きなど家庭料理を自分の好きなだけ取り、国産ビールを飲みながら数週間の日本滞在の余韻に浸るのは一興です。

 

ブリスベンの空港も最近立派になり綺麗ですが、規模やハイテク技術、空港自体の持つオーラは何と持っても関空が世界1だと信じて疑いませんでした。

 

 ところが、途中ドバイに給油のために立ち寄りました。

次のスキポール(オランダ)行きとの連絡が悪く5時間くらいあり、随分待ちぼうけをくらいました。

もう少し時間があれば、外に出て市内観光できたのに残念です。

 

ただ、暑いところに、海外からの旅行者でも、女性は肌や顔を出さない方がベターと言いますからちょっと、文化の違いに戸惑いますね。

 

ドバイは1970年からわずか数十年でGDPが一挙に30倍に膨れ上がった国です。

中でも、ドバイ空港は、アジア、アフリカ、ヨーロッパの中継点にあり、2014年にイギリスのヒースローを抜いて、世界一の旅客量となりました。空港就労人口が9万人、40万企業のビジネスが絡み、全GDPの30%となっています。


 

 空港の中は清潔で綺麗です。ただ、デパート状態で人、人、人でごった返しています。滑走路も140エアーラインが乗り入れており、丸で飛行機の展示場です。一週間の発着数8000便 つまり一日 1000便以上です。電光掲示板なんて、巨大なものがぶら下がっています。

 

 
これ一応エレベーターですからね。

エレベーターも、120人乗りがあり家ごと上に上がる感じです。

私は、迷子になって同じエレベーターをあがったり下がったりしましたが、満員の時も家内と二人だけの時もありました。 流石に二人で乗るには、電気代勿体無いと思いました。

 

最近、インドネシアにも新国際空港が開港したそうですが、それを見てきた友人が、

「立派でした。関空にはもう少し拡張して頑張って欲しいですね。」と言ってました。

拍手[0回]

【2015/05/24 06:39 】 | 紀行文(ワインを啜りながらお読み下さい。) | 有り難いご意見(0)
| ホーム |