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【2024/05/18 15:26 】 |
連載第2弾 私の霊体験 第 8話 
 BETTY の 霊視を 書かせて頂く前に、ちょっと 霊界の秩序について 私の 思うところを 書かせて頂きます。少し 長くなるので (5章位 ページを 割く事になります。) 後からの方が良いかな(?)とも 思いましたが、先に読んでいただく方が より ご理解が深まるだろうと 思いました。
 
 
 日本で サラリーマンしている頃、独身寮に 強制収容されていました。
 
 絶対、でれません。
結婚が唯一の退寮手段です。  40近いおっさんも 結構いました。

 
(私の 若い頃と 違いますよ。  俳優の竹内力。 一年下の後輩で同じ寮にいました。 悪役やってますが、優しい男です。 こんな顔してて 短距離物凄く速いです。ウィキペデイアにも書かれていませんが、知られざる特技ですね。)
 
 おまけに、寮長が人事部長代理で、私生活も監視され、完全管理されていました。
銀行では、人事部の権限は絶大で、普段偉そうにしてる支店長や、本部の部長連中でも 人事部から電話があると 借りてきた猫みたいになります。 
急に背筋を正して話しています。
 
 南海沿線の羽衣寮に 名物寮長の 小笠原代理(仮名) という人がいました。
寮生の間で、彼は寝ないと 専らの 評判でした。
寮長が寝なければ 寮生は寝れません。  「ちょっと 飲みに来い。」 なんて誘われたら 朝まで付き合わないといけません。 下手すると命取りです。
 
(余談ですが、サンマも そうらしいです。雨上がり決死隊 宮迫は、サンマと一緒にロケした3日間、一睡もしていないのを目撃しています。 宮迫が、フラフラになって帰宅し、テレビをつけたら、生番組で、サンマが、いつもどおり 喋り捲っていたそうです。移動の新幹線は、売れっ子には 貴重な睡眠時間ですが、彼は、そこでも延々喋り続けているそうです。)
 
 銀行員時代には、日曜日も、半分は 会社の仕事をしていました。
たまに 完全休養の日があると 運動会や 納涼祭 避難訓練と 休ませてくれません。
参加しなければ 人事考課に  がつきます。今、考えると 地獄でした。
 
 
 私が辞める 数年前に 「OO銀行残酷物語」 が シリーズ物で発刊されました。1985年の事です。
この本が 発表された時、我々若手は、色めき立ちました。
 
 まあ、何処にでもありますが、罵声と怒号の飛び交う職場。 パワハラ セクハラ 問題。 就職協定無視の青田買い。など 白日の下に暴いてくれるのでは? と、 淡い期待を胸に、本屋に奔走しました。
 
 ところが、内容たるや、「企画部の 誰それは、優秀で、こんな 仕事をしている。」 とか、「ドリーム チームを作って 来るべき 未来の銀行を目指す、エリート(?)集団。」 などと 賛辞賞辞ばかりで、全く 暴露本ではありません。 (売れ行き見込んで、 タイトルだけ 暴露本 装うなよって)
 
まあ、期待する方が無理ですが、大いに失望しました。
 
 ちょっと 脱線で、青田買い (リクルート) について お話します。これの おかげで、我々は 一日の休みも無く 働かされたわけですから。

 当時 就職協定というのがあり、企業が 学生に近づくのは 10月1日の解禁日以降とされていました。
 私の銀行は、一応 関西の人気企業で、関東の東京海上火災と並んで、朝から 本店の周りを青いスーツ姿の学生が グルリと囲んでいました。

 私は 内定いただいているのに 「お前も朝から来て並べ」 と 指示されました。
(私が見たところ 行列の中には 沢山 内定者が混じっていました。 さくら だったのです。 笑)

 それで、一応内定もらっているし、早く来る必要もないので、朝 ギリギリに来て 列の最後尾で 待っていました。 

 すると、朝日放送の人気レポーターが、 「貴方は、最後尾ですが、大丈夫ですか?」 と、インタビューしてきました。 (不名誉な事ですが、お陰で しばらくの間 私は、大学の有名人になりました。 )

 私は、本命は商社で、銀行は希望していなかったので 大暴露してやろうかと 一瞬 魔が刺しました。

(実は、囲い込みにあって、 商社面接 良いところまで 行っているのに、いけなく されていたのです。
採用のやり方にも不満が あったので、 「ここで 並んでいる人は さくらです。 そうでない人も 大勢いますが、万に一つも チャンスありませんから。」 なんて。笑)

 でも、後々 大きな問題になりますし、 そんな 暴露人間 商社も 警戒する筈ですから、 
「ちょっと 出遅れましたね。 でも 距離は関係ないでしょ。ヤル気をアピールして 跳ね返すつもりです。」 と、溌剌と応対しました。 

「ヤル気は 先頭の方が 買われやすいと 思いますが」 みたいな 微妙な 嫌味を 言われました。
(そんな 心構えで 内定できるか!! とも 取れる 意味深な コメントを残し レポーターは
私を 離れました。笑
 
 
 就職後、我々若手は、祭日、週休、休日になると、 採用活動を させられました。
休みが近づくと、人事部から選ばれた リーダーから 召集がかかり、大学の正門前 や 梅田に集合しました。
それも 朝 7時 とかです。
それで、一日中 倶楽部訪問したり、学生を集めて 説明会や面談したりします。

終わると 本店に再集合で延々深夜まで 成果報告と 面談した生徒の分析です。
そんな生活を 5-6年 していました。

 何故、そんな事が必要かと いいますと、一般的に 銀行員タイプと 言われる人たちが 銀行にとって
一番 要らない からです。

 我々はよく、

「ゴルフで ブッシュに 打ち込んだら イノシシの様に突進し、鼻血を出しながら 人のボールでも 10個くらい集めてくるやつを 採って来い。」 
 とか、 

「何処かの 密林に 野放しにしたら、酋長の娘を娶り 酋長になる人材を 探せ。」 などと 言われました。

 そんな注文を付けられると 足は、自然 応援団とか 体育会総部 少林寺 空手 相撲部 などに 向きます。
 実際 そういう 人たちが 私の銀行の主流でした。

支店長が OO大学応援団 100代目 団長とかで、 支店長席で雄たけびをあげている風景が そこら中に転がっていました。



 
こんなのいたら 一発採用です。要は 豪傑ですね。


 話を戻します。
 

 此処から、やっと 本題です。笑

 私は岡町寮にいましたが、淀屋橋の本店に通うのに、阪急宝塚線を 利用していました。
毎朝 過労を通り越し瀕死状態です。 おまけにすし詰め電車に揺られていました。
 
 朝 上司に出くわすと
上司、 「また アメリカ 公定歩合 あがるなぁ お前 何%まで 行くと思う??」
私、 「まだまだ 行くでしょ 後 1.5%は あげないと!!」
上司 「1.5% ?? 根拠は?」 
 
私  「  ----。」
 
上司 「なんや 応えられないのか? まだまだやのう!!」
 
なんて、いじめられるわけです。

 こんな会話 何になると 思います?
大蔵大臣と 日銀総裁 の 間なら 意味もありますが、一介のサラリーマンが そんな話 したところで メリット 全くありません。
酒の席でも そんな話ばかり 延々していました。

(先日 大阪駅前支店で 同期だった 山口君に 久々に電話したら、
「 オーストラリアの インフレ率と 金利関係 が おかしいけど、君は どう思う? 」 なんて いわれました。) --- こいつ まだ やってると 思いました。
 
 独立後、無駄な知識を入れる必要がなくなりました。
自分の興味のある分野に 好きなだけ 時間が注げます。 効率的で 楽しいです。
 梅田まで 僅か 40分くらいの通勤時間でしたが、それでも 必死で 日経を読んでいました。
会話についていく為です。
 
岡町はまだ 自力で立てるスペースがありましたが、 次の曽根 や 庄内 に来ると、プラットフォームに 入りきれない程の通勤客が 待っています。
それを 駅員達が スクラムの要領で 押し込むのですが もう 腸が飛び出すほど の 圧力です。

 自力で立っているというより、人の間に挟まっている感じでした。 
そのうち 私は、人によりかかって 体力を保存する。 特技を 身につけました。
丁度 葦が 風になびく様に 人間の間で フラフラ なびくのです。



(なんの しんどさ でしたよね。あの頃の私達。    もう つぶれるって!)

 新聞は 2つ折から4つ折に 最後は 6つ折にして もっていました。
 大混雑の電車に乗ると、自分の新聞は読めず、 誰の新聞でも 自分に向いているページを意味もなく読む毎日でした。
 
 ある日 同じように  誰かの新聞を 吊り輪のワッカ越しに 見ていました。
その日は 特に混雑していて、自分の手足が 何処にあるのか わからない程でした。
 
 その記事は、私に 「読め! 読め!!」 と 迫ってくる感じで、 顔から 数センチで 私を睨みつけていました。 最後は、おでこに ピッタリ 張り付いて、電車が揺れて 少し離れた時に 焦点があって 否応なしに
読まされました。 (相当 記憶の深いところまで 入り込んだ 感じでした。)
 
 そこに 書かれていたことが 25年を経て 今頃 重要になるとは 夢にも思いませんでした。

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【2012/09/13 18:57 】 | 不思議スピリチュアル体験 | 有り難いご意見(0)
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